2009年4月18日土曜日

4/18 Today 山本五十六戦死(1943)

山本五十六 - Wikipedia: "山本 五十六(やまもと いそろく、明治17年(1884年)4月4日 - 昭和18年(1943年)4月18日)は、大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。

真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦を指揮した。"
真珠湾攻撃では成功したが、ミッドウェイでは負けてしまった。

山本五十六は賭博が大好きだったらしい:
山本は博打が好きで、腕前もかなりのもので、特にポーカーやブリッジに強かった。山本曰く「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」。ちなみに山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったと伝えられるが、そのモナコではカジノ協会から出入り禁止令を受けている[16]。真珠湾攻撃を投機的と心配した昭和天皇に対して永野修身が「山本は博打につようございますから」と釈明したという。山本の博打好きは、山本の親友であった今村均によっても戦後、証言されている。毎週末に山本、今村、安達二十三らのどれかの家でポーカーが開かれていたと今村は語っている。

ミッドウェイでも:
昭和17年6月、戦略目的の不明確なミッドウェー作戦を強行し、空母4隻とその全艦載機を喪失するという大敗北を喫した。その敗因には、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に、霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻の貧弱な護衛艦しかない南雲機動部隊、その540kmも後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、鳳翔の空母1隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、瑞鳳の空母1隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという、戦艦重視の聯合艦隊の編隊や、龍驤、隼鷹の空母2隻を中心とした部隊をアリューシャン方面に向かわせるという陽動作戦も挙げられる。しかし、指揮官の山本は軍法会議にかけられることなく、その後もその地位に留まった。主力の空母加賀、赤城、蒼龍が次々と攻撃され炎上、との電文を通信長が持ってきても、「ホウ、またやられたか」というだけで、将棋を指し続けた。

「勝負」は勝つときも負けるときもあるのである。孫子はそのへんがよく分かっていたので、戦は出来るだけ避けて戦わずして勝つことが一番だと喝破していた。賭博なら負けたらお金をなくすだけだが、戦争は人の命がかかっている。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

源田は奢兵だったと述懐しているが、優勢なほうが兵力を分散させて負けたのは歴史に枚挙の暇がない。
ワーテルローのナポレオンも兵力を二分したことが直接の敗因。